犬養木堂の書




2014.02.17
犬養毅(木堂) 書 (大正七年〜十四年)
「開誠布公」 132.6x41.7 絹

開誠布公之學 無偏無黨、忠君愛國之心 不阿不諛 犬養毅

【印章】

呉昌碩 印章

「子遠」老缶製

印章は一顆のみ。この一顆のみの書幅を見て、木翁を知らぬ人は略式などゝ思うようです。しかし、事実はさにあらず。
木翁曰く「明人の俗習として大印を用ひたれど(明中世以後)清朝に至り小印を用る様になりたり、是も漢唐の古法也、日本人は幅の肩に印を用ひ(所謂關防印)是は必ず捺すものと心得たるは誤なり、支那流では罕には用うることもあれど大抵は肩の印なきが常法なり」と。
それでは何故、現存する木翁の書幅に一顆が少数なのか、これについて「老生も肩に印を捺す也、是は田舎向きに為すにて是無き時は更に送り戻し来りて二度手間になるが故に世俗的に之を用ふれど物知りの人より求められしものには肩には印を捺さず、又署名は(即ち落款)の下に小さき印一顆を捺す也、支那人より書を求められし場合には必ず印一顆丈けで支那流に為すを例と致居候」と、その理由についても当時の書翰において述べています。


2014.12.07
犬養毅(木堂) 書 (大正十一年〜十四年)
「一動天下」 144.0x40.5 紙

一動天下無難事、百忍堂中有太和 犬養毅

【印章】

呉昌碩 印章 呉昌碩 印章 呉昌碩 印章

「従心所欲」呉昌碩(大正五年)初夏刻
「犬養毅印」木堂先生策刻苦鐵
「子遠」老缶製

呉昌碩の「従心所欲」印は大正〜昭和に愛用された。


2014.08.28
犬養毅(木堂) 書 (大正七年〜十二年)
「一燈耿青」 124.7x36.9 絹

一燈耿青焔  一燈 青焔耿たり
風雨自凄然  風雨 自ら凄然
中有無事人  中に無事の人有り
読易終残年  易を読みて残年を終えん
 木堂散人走筆

「たゞ一つのともしびは、明るく青い焔をあげて輝き、風雨は自ずとものさびしい音をたてゝいる。そうした中に、心にかゝることもない清閑の人あり、孔子は晩年『易経』を好み「韋編三たび絶つ」と言われたが、わたしも繰り返し『易経』を読んで、残りの生涯を終えようと思う。」『木堂遺墨考注』より

【印章】

徐星州 印章 呉昌碩 印章 呉昌碩 印章

「坦蕩〃」戊午(大正七年)春仲星州作
「犬養毅印」木堂先生策刻苦鐵
「子遠」老缶製

苦鐵・老缶は共に呉昌碩のこと。木翁の晩年は、そのほか童大年・趙叔孺・王水銕など支那人の印が多く用いられ、壮年時代の使用印には濱村蔵六・中井敬所、古川銕畊・金子蓑香・成瀬小谿などが挙げられる。


2014.12.04
犬養毅(木堂) 書 (大正十一年〜十四年)
「四壁清風」 137.8x37.8 絹

【印章】

徐星州 印章 徐星州 印章 徐星州 印章

「坦蕩〃」戊午(大正七年)春仲星州作
「毅字子遠」星州刻
「木翁」呉門徐星州

三顆共に徐星州刻。星州は江蘇呉県の人。呉昌碩に学び門人中最も師法を得たと云われる。木翁遺印のなかで最も多いのはこの人の印。


2014.12.07
犬養毅(木堂) 書  昭和三年三月
「漢陽水流」 34.3x77.2 紙
書風には宮島詠士の影響が見られる。




自身の贋作を鑑定する木翁
御持参の書幅一覧仕り候、是は岡山にて贋造したるものにて先年検擧に逢ひ今は無き筈に候。
小生本より拙筆に候へども、この幅の如き拙悪には至らず、印は普通の印判師の模造したるものにて木印なるが如し。
別紙印影は小生十餘年前迄用ひしものにして、是に對照成され候はゝ、印象の巧拙分明に候、印色もまた眞の朱にあらずして丹を用ふるが故に淡紅也、寧ろ黄色を帯る也。
『大正九年八月廿六日付木堂書翰』より


箱書付は士君子の爲すべきものに非ずと木翁説く
箱書付は絶對御断り申し上げ候、君も斯る道理を知らぬと想はるゝにつき左に説明すべし、箱書付は職人の爲すことにて士君子の爲すべきものに非ず。
その陋風の起りは抹茶家が何某の釜にて同人の箱書付ありとか小堀遠州の茶杓で遠州の箱書付とかと云ふ如き習慣あり。
随て俗書家・俗畫家など自分自ら箱書付を爲すことになりたれど、是は俗人の習慣にて士人の爲すべきものにあらず、またそれを求るは甚だ失禮至極の事と知るべし。
陶器師や鋳物師と同様に吾々を待遇すると同様と知るべし、所謂茶人ほど古より無學のものなしと知るべし。
『大正十年九月四日付木堂書翰』より




犬養木堂翁の尺牘




2014.02.19
犬養毅(木堂) 書翰 岸本源助宛 (?〜明治三十七年)八月四日付
今村長賀・別役成義等が開催している鐔会のとき、「天狗の鼻をツマムに足るべきもの」が欲しいと要求するユーモラスな内容を含む。長賀老・別役老は、共に土佐藩出身、且つ刀剣鑑識の重鎮であり、晩年は両名共に宮内省御剣係を拝命した。

拝啓。益(ますます)御壮健の事と賀し上り候。扨て過日御送付の銕鐔、差し向き用ひ方には少々不似合と存じ候得共、ちょと面白きものにつき御もらひ致し置き候。尚、例の太刀に用ひ候様の鐔あらば御送付下されたし。金紋桐または菊・桐などの古代小柄はこれ無き哉、御心掛け下されたし。
曩(さき)に小生直に持ち帰り候隆幸作秋七草縁頭は、過日同模様の小柄を御返し申し候以上はちょと不用に付き、本日小包にて御送付致し候間、后日何かと御交換候とも、又は少々割引候て御手元にて御賣却下され候てよろしく候。兎に角御受け取り置き下さるべく候。
近来御手元に入り候ものにて、何か面白きもあらば御送付下されたく候。當地にて此頃、今村(長賀)・別役(成義)両老人始め四,五人のもの時々鐔會相催し居り候。天狗の鼻をツマムに足るべきものあらば、御心懸け置き下さるべく候、草々。
 八月四日 犬養生
岸本源助様
秋七草縁頭は四円五十銭に當り居り候。
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岸本氏は皇室御用達の刀剣商。岸本貫之助の蒐集した刀剣は『草薙廼舎押形』として刊行されている。


2014.02.19
犬養毅(木堂) 書翰 岸本源助宛 十一月廿七日付
木翁の刀剣小道具収集志向が述べられており、時代物(古金工の類いか)の分野が専らであったところ、近来は品物が拂底しているため、町彫にも手を出し始めたとのこと。

   
   

  一竿子(忠綱)、又は埋忠(明壽)の彫物ある小柄刀あらば御送付下さるべく候。
芳書拝見致し候。江州中井某所蔵の廿五佛高彫は嘸(さぞ)傑作ならんと想像致し候、是は迚(とて)も望むべからざる事につき、勿論絶念致し候。正廣は上出来のもの一口所持致し候につき、御送付に及び申さず候。
御申し越し小道具の中、縁(一宮)長常作の縁頭は能く出来居り候ものなれば御送付下さるべく候。出来面白からず候はゞ御送付下されまじく候。
〇秋草虫の柄笄は金銀銅の色繪なるべしと想像致され候。是はあまり望みにはあらざれども、作柄上出来にて如何にも(後藤)一乗の作に紛るゝ程の物ならば、序でに御送り下さるべく候。但し一覧の上、意に叶はざれば御返却申すべく候。
〇獨鈷の出来は如何哉。
無赤七子(魚子)の古き縁あらば御送り下さるべし。桐の紋あらば極めてよし【金紋は望みに非ず、無縁のもの入用也。但し時代古きものに非ざれば入用なし】。
赤銅七子地金紋菊桐の半差小柄入用(笄も入用)。
小生是迄時代物のみ集め居り候處、近来品物拂底に相成り候につき、近来は町彫物にも手を出だし居り候間、京坂地方の分(長常・一乗・銕元堂)の類ひは申す迄も無く、(横谷)宗a・(土屋)安親・(杉浦)乗意・(奈良)利壽の類ひ、又は其れ以下のもにても傑作あらば御心掛け下さるべく候。
當地におゐても、刀剣の見る可き程の物は一向出で申さず候。それ故新刀の傑作を探し居り候事に御座候。但し通常の出来は望みなし。
明春、議会閉會の後は御地方に參り候筈に付き、ユルユル御會談致すべくと楽しみ居り候、草々。
 十一月廿七日 犬養毅
岸本源助様
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「無赤七子の古き縁」とあるのは、古いところの赤銅地で赤味を帯びない黒々とした赤銅の意から「赤く無い魚子地の古い縁」と解し、いわゆる古金工を指すものと見られる。
「町彫」とは、幕府お抱えの刀装金工後藤家の御家彫に対する呼称で、書中において木翁が注文している一宮長常・後藤一乗・横谷宗a、奈良三作に代表される町彫のこと、また土屋安親・杉浦乗意・奈良利壽などは名工中の名工として夙に名高い人物。


2014.02.19
犬養毅(木堂) 書翰 岸本正之助宛 (?〜明治四十四年)三月八日付
一竿子は良かったものゝ惜しむらくは彫物が磨滅している、貫名海屋の傑作を所望、あるいは書幅の上出来なれば和漢を論ぜず、との依頼。

   
   

拝啓。今日は御来訪、且つ御恵贈もの辱く鳴謝致し候、いつも御訪戸のみ頳顔の至り、御差し置きの二本とも瞥見致し候、一竿子なを面白し、たゞ恨むらくは鯉魚の肉削落の一事に御座候、若し完全のものにて候はゞ欲しきものに御座候。
(貫名)海屋の傑作、出で候はゞ御しらせ下されたし、拙宅の床は大の九尺なるが故に、普通の二間床に懸くるものも間に合ひ候、貫名には限らず書幅の上出来なれば和漢を論ぜず。
明早紀州に向け出懸ることによりては、十三,四日頃再び當地に在京候筈、その節ユルユル拝晤致したし。
過日の小道具三点の代金五円封入致し置き候、御落掌下さるべく候、草々。
 三月八日夜 犬養毅
岸本正之助様


2014.02.19
犬養毅(木堂) 書翰 岸本正之助宛 (?〜明治四十四年)八月廿七日付
光村(本阿弥光遜か)の「小道具押形」を見たところ、たいへん良いものが多々あり頗る面白かった旨、光村本人へ謝状を渡していたゞきたいと依頼。

   
   

拝啓。過日は御訪戸致し候その砌(みぎり)、御依頼候光村氏(本阿弥光遜か)纂小道具押形一冊、今日落掌一覧致し候處、神品・精品往々これ有り頗る面白く覺へ候、色々御手数鳴謝の至り、即ち別帋は同氏へ謝状呈し示したく、御傳達下さるべく候。
光村氏、今秋上京御致し候趣、いづれその節面晤致すべく候、但し小生は一向何も蔵せず、大概粗末なる物のみに御座候、中ん就く御承知の通り小生等の好尚は慶長前の拵風にて、その後の物は所謂肥後風の物を集むる方に付き、同氏とは全く流儀違ひに御座候故、御目に懸くる物は極めて罕(まれ)に御座候、併し何か御覧に入れ申すべく候、右用事迄、草々。
 八月廿七日 犬養毅
岸本正之助殿


2019.05.09
犬養毅(木堂) 書翰 岸本正之助宛 十一月六日付
送られた信家鍔を冩しと鑑別し、冩しにしては價が高いとのこと。

拝啓。先月御送付の小道具、熟覧の上御返事致すべくと存じ乍ら、過般来非常多忙にてつい其の侭に相成り居り甚だ相済まざる次第、平に御容恕下さるべく候。
右品の中、
赤銅 桐鍔 七円五十戔
銅  菊鍔 一円十五戔
正阿弥象嵌鍔 三円
右三品買い入れ、其の餘は返却申し候【小包に付し置き申し候】、即ち左の如し。
信家鍔
埋忠鍔
琴爪小柄
象嵌縁
赤銅わらび形胴輪外鐺
〆五品【御改め御受け取り下さるべく候】。
信家鍔は冩しと存じられ候得共、金味至極よろしく頗る望しく候得共、價も亦随分貴き方に付き、残念乍ら見合せ申し候。買い入れ候三品代金拾二円廿五戔に相成り候。其の内より當夏差し引き残金壱円廿五戔を御除けすれば、残り拾壱円と相成り候。これは明日にても為替にて差し出だすべく候、草々。
 十一月六日 犬養毅
岸本源助様
尚々遠引之段御氣の毒に存候。これに懲りずして相易らず品物御送付下さるべく候。


刀劒の道樂を抛棄した木翁
大正五年の春、木翁は刀剣及小道具すべてを売却し、これを政戦の軍資に充てた。このとき、友人其外から贈られたものはその舊所有者に返還し、亡父の佩刀を残すのみとなる。
後日、榊原銕硯へ宛てた書中にて、「刀劒賣却、僅かに押形にて慰め居り候、因て畫劒斎と號す、この次に押形も無くなれば更に夢劒庵とでも改め申すべく候」と例の諧謔心を発揮した。


2014.02.19
犬養毅(木堂) 書翰 草薙屋御主人宛 (大正四年〜十年)八月二十日付
豆州長岡の二升庵より、草薙廼屋 岸本氏に宛て、要件は冒頭の四行で済むこと乍ら、關防印が落ちてますよと揮毫を返送された木翁黙っていられず、「茲に一事、兄に注意致したき事あり」と、印の俗例を説く。

   
   

  董其昌が太史氏の大印、倪元璐・黄道周の大印が遂に本邦の俗文人・俗官吏の書畫印の標本となりしなり。
敬啓。關防印を求められし小額二、奥和尚の小扁額二、共に小包に付し置き候。
茲に一事、兄に注意致したきことあり、關防印は無きが普通にして、有るが却って異例なれど、我邦にては如何に間違ひたるや。 (文化文政の聖堂の諸大家を始め、山陽・小竹等の連中は頓と気付かざりしと見ゆ、明中世中ん就く明末に大印を用ひしを見て、古例に復したる清代の正法を知らざりしと思はる)。 學者も文人も必ず肩には印を捺し、名字の處には大印二顆までペタペタと捺するものと心得、極めて俗悪なり。 大字を用ふる俗悪の例を開きしは明人なり、古例には無し。清朝になりて學者これを悟り、關防を用ひざるを通例と為し、また姓字の下には小さき印一顆を用ふるを上品のものと為すなり。 小生も田舎者の需に對しては、俗例に随ひペタペタと澤山の大印を用ふれども、兄は書畫に没頭する人なるが故に、特に田舎漢待遇をやめて本式に随ひしなり。 誠に乾隆以後の學者の書幅を見れば大印を用ひず、特に關防は用ひざるなり。これを用ふるは俗悪の書畫を以て職業と為す名も無き人物なり。
 八月廿日夜 豆州長岡二升庵にて 木堂毅
草薙屋御主人
小さき印が別荘に持ち合はせなかりしが故に、大印を用ひ甚だ俗に相成り候。
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豆州長岡の二升庵は、一年に一坪あたり玄米二升の借地料であることに由来する木堂翁の別荘。

2019.5.12
犬養毅(木堂) 書翰草稿 廉南湖宛 大正七年
廉南湖は清朝の官人、明治三十七年官を辞し、上海にて兪仲還・丁寶書等と「文明書局」を設立した。詩文・書法・書画・金石を善くし、著作に『南湖集』『潭拓集』『夢還集』等あり。 また南湖は金石・書畫の蒐集家として知られる。書中に見る『澄清堂帖』と『姚少師畫巻』とを木翁は借覧していたが、大阪・神戸へ旅立つことゝなったゝめこれを返却するとの旨が記されている。

南湖先生足下
澄清堂帖并びに姚少師畫巻、借覧數日、僕何ぞ幸ひ此くの如き眼福を得るや、深く感じ深く謝すこと量り無し、僕今夕上途し、大阪神戸等を巡遊して約十日間家に在らず、茲に因て右二寶を奉還す、御査収...。
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南湖がいつ来日したか詳らかならずも、大正七年七月一日付の書中にその名を見る、銕硯(木翁の親友)は書畫甚だ工なりと南湖に教えたとのこと。


2018.4.21
犬養毅(木堂) 書翰 中野房七宛 十二月十七日付

 

京都市寺町姉小路上る 鳩居堂内 中野殿

御約束致し置き候高田硯材一枚、今日東京支店に托し進呈致し候。
この硯には金斑あり、或ひは金線あるかも知れず、洗ひて見れば分明になるべし。
 十二月十七日 牛込馬場下町 犬養毅


2018.4.21
犬養毅(木堂) 書翰 中野房七宛 三月八日付
勉めて怠らざれば終には鳩居堂の中野博士をして斯く道のオーゾリーチー(authority)たるを得べし、と奮起を促す。
木翁の書翰にまゝ見られる揮毫廃止のこと。大正二年には既に相当数の揮毫依頼を抱えており、一切揮毫せずと決定したことが述べられている。
「芳書の件、甚だ申し兼ねれども御断り申す外これ無し、現に集り来り居るもの五千枚以上あり、多忙の身にて罕(まれ)に得る閑時間を以て之を書き了るには、少なくとも二,三年は懸る也、況や後に新たに来る者に應ずれば、終身此の如き馬鹿げた事に労せざるべからず、因て一切揮毫せずと決定せり」。
『大正二年九月七日付木堂書翰』より

 

敬啓。一昨日は態々旅宿へ来訪下され、且つ墨御持贈下され、御厚情感荷の至り、丁度来客中、右面晤を得ず甚だ残念に存じ居り候。 その後も矢張り硯の研究を續け居られ候や、本邦にては硯の研究者甚だ寡く候につき、成るべく引き續き研究せられたし、勉めて怠らざれば終には鳩居堂の中野博士をして斯く道のオーゾリーチーたるを得べし。
墨の礼状を熊谷氏にも差し出し置き候、よろしく御傳へ下さるべく候。
實は近来揮毫を廢したるにつき、筆墨の入用が無くなり候なり。先年貴店にて雪舟用ひし藁筆を一覧したることあり、今に所蔵せらるゝや否や、若しあらば珍物として買入れたく候。
 三月八日 只今旅行先より帰宅したる也 犬養毅
中野房七殿


2018.4.21
犬養毅(木堂) 書翰 熊谷直之宛 (大正十三年?)三月八日付

敬啓。木堂用墨三笏、恵贈下され御厚意有り難く存じ奉り候、専ら此に布謝并に冬祺を祷り候、不一。
 三月八日 犬養毅
熊谷直之殿
往年用墨の製作を願ひたる俊羅事、多忙の為め別紙の通り翰墨を廢絶致し、華墨を用ふること甚だ稀に相成り候、御一笑下さるべく候。
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熊谷直之は鳩居堂の九代目当主。
木翁書翰、大正十三年にのみ「此に布謝并冬祺を祷候」という文言を見る。


2018.4.21
犬養毅(木堂) 書翰 鳩居堂主宛 七月七日付
硯の研究家として知られた小野鐘山が講演会を開くとのこと、文墨を愛する木翁は同氏を絶賛、すでに内藤湖南・長尾雨山にも紹介したと伝える。

敬啓。この度小野鐘山君を聘して硯の講演會を開かるゝ趣承り、文苑の美擧、欣喜に堪へず、鐘山君の硯に於ける多年研究を積み考據の該博鍳識の精確、尤も敬服する所に候。
(内藤)湖南・(長尾)雨山両君には已に紹介致し置き候、両君も定めて援助せらるべしと存じ候。取り敢えず茲に賛賞の微意を表し候、不備。
 七月七日 犬養毅
鳩居堂主翁鍳


2014.02.19
犬養毅(木堂) 書翰 本山彦一宛 大正六年六月十一日付
臨時外交調査委員となった木翁について、大阪の二大新聞が大批判。
中央の政情に疎い地方の同志などもこの事で浮き足立つ。このとき、大阪毎日新聞の社長 本山彦一に宛てたのが当書翰。

   
   

芳書只今拝見、各自批評の自由云々の一語、至極御尤もに候。前便小生の書中には論評につきて彼是云ふにはあらず、公平の観察、公平の論断を求めたる意に候。議論は各自の信ずる所に異同あるべきは当然なり。但し事実を枉げて一々感情に由って論明する朝日報知・万朝の如き、筆を揃へて世を扇惑する時に當りては、貴社の如き中正不偏の紙上に於ひて莫々公平の批評を求んと欲するの意の外ならず、この意御諒知下さるべく候。
来翰中に憂国の精神、處世の変通云々とあり、僕は處世変通の四字に於ひて甚だ慊らない。僕此の擧、處身處世に於ひて観念する所なし。一旦国事に向ひて邁進するに當りては、眼中は目的物の外に何もなし。この一事は僕四十年間鍛錬より得たるもの、他の政治界に在るものと同じからざる處、御諒察下さるべく候、早々不尽。
 六月十一日朝 犬養毅
本山大兄


2014.12.04
犬養毅(木堂) 書翰 最上直吉宛 三月十四日付
木翁のペン字に関する話を『犬養木堂傳』より。
「正確には判らないが、ペンを用ゐ始めたのは、明治の末年か大正の初年頃からではないかと思ふ。黨員の誰かヾ洋行土産に萬年筆を贈られると、多少の好奇心も手傳って早速ペン字を書きだされた。「どうも困ったナ、一つ先生に陳情して、毛筆にして貰はうよ」、ソンな話がよく同志の間に持ち上がったものである。しかし木堂は取り合わなかった「第一、ペンで書くと澤山書いても郵税が安くて徳用だ」などと笑ひながら、萬年筆を用ゐて居たが、勿論毛筆を廢した譯ではなかつた。」

敬啓。今日再度尊大人に御面談致し候へども、一種の説あり、その要はたゞ出らるから出るでは困る、如何なる抱負あるかを聞きたる上に決定したし、且つ小生の将来に於ける意見も十分承りたるにて決したし、右の話し候へども、小生は七時に岡山に行かざるが故に長く談話するの暇を得ざりしにつき、来る十八日帰京の上、今一度御面談致すべき旨を述べて帰還致し候、無論絶對反對の意味は少しも無し、故に十分胸を披きて相談すれば同意せらるべしと信じ候。
 三月十四日午后五時 犬養毅
最上直吉殿
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最上直吉は秋田縣角間川町の豪農。大正九年五月十日に実施された第十四回衆議院議員総選挙に當選、國民党に屬す。國民党所屬代議士。終始木翁の黨與に在り。

参考文献 『犬養木堂書簡集』鷲尾義直編 『犬養木堂伝 上中下』鷲尾義直編 『木堂遺墨考注』佐藤威夫著 『犬養木堂日本中国書画コレクション』銀座松屋 『墨35号 特集 木堂犬養毅』芸術新聞社 『木堂先生印譜』『木堂先生遺墨集』『木堂犬養毅伝』『木堂先生韵語』木堂犬養毅顕彰会